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第51節 故善戰者、致人而不致于人。能使敵人自至、而自以得所欲者也(ゆえに いくさ に よくする もの は、ひと を いたして ひと に いたされず。よく てきじん をして みずから いたらしめ、みずから ほっする ところ を える もの なり)

📜 原文(漢字のみ)

故善戰者、致人而不致于人。能使敵人自至、而自以得所欲者也。

🪶 書き下し文(文語)

ゆえに戦いに善(よ)くする者は、人を致して人に致されず。
能(よ)く敵人をして自ら至らしめ、自ら欲する所を得る者なり。

💬 日本語訳(意訳)

ゆえに、戦上手というのは──
敵を自分の望む場所に誘導し、自分は相手に導かれない者である。
敵が自ら動いてこちらの思惑に嵌まり、
その結果、自分が欲しかった地点・状態を確実に得る者こそが、戦に長けた者である。

♨ 魔晄炉的注解

1. 動かす者であり、動かされぬ者であれ
軍争の核心は、誰が動かす側に立てるかという一点に尽きる。
先に動くのではない。
相手を動かさせて、動いたその先に“設計済みの構え”がある。

2. 敵を導くとは、見せかけの“自由”を与えること
真正面から導くのではない。
相手が「自分で動いた」と思う形で動線を敷く。
それにより、相手の主導権は奪われる。
「動かす」とは、主導権を渡さずに自由を演出する設計でもある。

3. 動線設計は、待ち構えではなく“配置”
この節が強調するのは、
戦いとは「出会ってからの勝負」ではなく、
出会う“前に”位置を組んでおく構成力の問題である。

✍ 作成者自論

見た目の印象、価値観の共有、流入経路・心的な動線・行動導線──
あらゆる設計には、“こちらに来てもらう構造という名の仕掛け”がある。
見せ方、表現、タイミング。
すべてが、「相手をどう導くか」の配置である。

こちらが動いて主張しすぎると、軸を渡してしまう。
一方、相手が自ら動き、結果としてこちらの構造に到達したとき、
そこで初めて動きの主導権は維持されたまま接触が成立する。

相手の足がつい一歩前に出てしまう心理的トリガーを意識することが大事である。

動きとは、仕掛けではなく配置である。
構えて待つのではなく、“どこに動くかを誘発する流れ”の組み方に本質がある。

🧭 その節のまとめ

この節は、**「動きの主導権は“配置”によって握られる」**という思想を伝えている。
魔晄炉的兵法では、

戦いの始まりは、出会いではなく、動線設計から始まっている

相手を導き、自分は動かされない構えこそが、勝者の位置取りである

そのためには、“どこに来てもらうか”という地点の選定と構造整備が不可欠

動くな、ただ仕掛けるな。
動かす流れそのものを設計せよ。
その先に、主導権を渡さずに勝ち筋を組む構えがある。

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